NEWS

暦では、もう秋に。

ブログの更新がなかなか進まず、すっかりご無沙汰してしまいました。
今日は、9/1。
暦では、もう秋となりますが、今日も変わらず湿度が高い一日。
でも、打ち合わせが終わって、夕方に外へ出てみたら風がもう秋を感じました。
季節はゆっくりとめぐっているのですね。

今年の夏はまさに酷暑で、どこに行っても「暑い」という言葉しか
聞かないのではないかというくらい。
また、豪雨の影響で災害に遭われた地方も多く、大変な平成最後の夏となりました。

こう毎日暑いと、お庭の管理もさぞや大変だったと思いますし、
デッキを楽しむ余裕もないほどに、室内に待機をする日々だった方も
多いでしょう。
こんなとき、つくづく思うのが、木漏れ日のありがたさ。
落ち葉などのお掃除はありますが、木が育ち木陰をつくってくれた
時のあの何とも言えない木漏れ日の気持ちよさ。
特に西側の夏対策には最適ですね。落葉樹であれば、冬の日差しを
取り入れることができて、これまたありがたい存在です。
自邸はさることながら地域の緑化率も高めると、やはり気温が下がります。
大切にお庭を育てることで、夏の暑さにも役立つ工夫も、
これからの時代必要なのかもしれません。

夏の疲れがでませんよう、しっかりとケアを心掛け、
初秋をお楽しみください。

湘南の歴史に触れる 片瀬編

日々の業務に勤しんでいたら、もう師走も半ば!
今年もあと半月で終わってしまうなんて、信じられませんね。
さて、湘南の歴史のことを書いてから、あっという間に1ヶ月が経ってしまいました。

先月は、湘南の別荘文化に触れてみました。
技拓として、再注目をしていただきたい「片瀬山」「西鎌倉」を
ご案内するに当たり、その周辺地域の歴史を紐解いていますが、
年内中に、片瀬には触れておきたいと思い、調べてみました。

14958499_1129691657106864_1616547086_n

片瀬と言えば、みなさんが思い浮かぶのは小田急の片瀬江ノ島駅でしょうか?
片瀬海岸、江ノ島、江ノ島水族館。最近ではパンケーキで有名なお店などもあり、
ここ数年人気が高まっている観光名所ですね。

我々技拓のスタッフも、毎年初詣は江島神社。
新年会は、丸だい仙水さんとお決まりコース
で、ながーーーいお付き合い。
江ノ島は、江戸時代から観光名所として人気があった場所でした。
私自身も、片瀬は馴染みの深い場所です。
私が片瀬と言われてぱっと思いつくのは、白百合と片瀬教会と山本公園。
江ノ電の江ノ島駅を降りて、海に向かうすばな通りはたくさんの方々が
ご存知と思います。
そのメイン通りから右に少しそれた道を通って川沿いに向かうと、
地元では一番美味しいと言われている濱野水産の釜揚げシラスの
香りがぷ~んと漂う場所が、私の通学路でした。
濱野水産を通り過ぎると、左手に山本橋が出てきて渡ったところに
片瀬教会が出てくる。教会よりもう少し右側にいくと山本公園。
テニスコートもあって、どこか優雅な雰囲気のある地域で、
この場所に8年間通い続けました。
そして技拓でも、第38回神奈川建築コンクールで奨励賞受賞した
公園に隣接する「リバーサイドテラス山本」を建てさせて
頂きました。

なぜ、山本公園や山本橋なのだろう?と思われた方もあると思いますが、
このあたり一帯は、もともと江戸時代からの名主であり、明治時代に
鎌倉郡の郡長として、片瀬村の発展に貢献された山本家の敷地だったからです。
そして片瀬教会と湘南白百合を語るには、山本家に触れずには語れないのです。
幕末から明治にかけて山本家の当主であった山本庄太郎氏には、
三人の息子さんがいました。

片瀬地区の宅地造成や江ノ電の敷設に貢献された、百太郎さん。
暁星学園に通いフランス語、英語をマスターした後軍人を経て原首相の元
国際的に活躍し、カトリックに深い信仰心を持ち、片瀬カトリック教会の
設立に尽力されてた、信次郎さん。
大正時代に、自宅にカトリックの仮聖堂を設け、それが後のカトリック片瀬教会へと発展していくのです。
side_img1
そして桂太郎首相の秘書として尽力された、三郎さん。

当時、片瀬など海岸地帯の多くは、「死の病」と言われた結核の療養に
使われていましたが、百太郎さんは健康な都市生活者の別荘地として、
利用してもらおうと考えた先駆者でした。
そのためには、生活基盤のしっかりした宅地開発が必要と考え、
江ノ電の敷設、山本橋を架橋、砂丘上の防砂林の植樹や
別荘開発のインフラ整備をされたそうです。

片瀬乃木幼稚園、小学校、高等女学校(今の湘南白百合学園)の開設にも
山本家は深く携わり、逗子から二宮までの別荘定住者子弟の受け皿と
なっていったのです。財界政界学界、文化人などの著名人子弟たちに加え、
外交官の子弟が多かった湘南の別荘地定住者は、国際的な感覚をもつ
湘南文化の発生に、大きな影響を与えていきました。
戦後には、大臣、次官、大使クラスの外交官一族が多く定住し、
旧財閥、旧華族の名前もごく普通にあったというのが、
この湘南という地なんだそうです。

こんなことを調べていたら、なぜこの湘南文化が生まれたのか
容易に想像がつきました。
まさに、別荘地であったからこそなんですね。
調べてみて、本当に楽しかったし、自分の中の疑問も明らかに。
やっぱり自分の住んでいる地域の歴史を知る、文化を知るって
とても楽しいものです。

年が明けたら、さっそく「新湘南生活」として改めてご提案したい
片瀬山について、触れていきたいと思います。

湘南の別荘文化を紐解く

いろいろな方々とお話をしているうちに、湘南の移り変わりについて
もっと掘り下げて知りたいという気持ちが湧いて、
ここしばらく調べていました。
湘南の歴史の話をすると、とても喜んで聞いてくださる方も多く、
これはちょっと、こちらのページで書いてみても面白いのではと、
思っています。

そもそも、なぜ歴史を調べたかというと、
湘南への移住にあたって、こんなことを加味してほしいなぁとか、
こんな場所が湘南らしいとか、土地の持つ雰囲気や暮らしに必要なインフラのことなど
総合的にご説明するにあたり、まずその土地の歴史を知ることで
より身近に感じられるのではないかと思ったからです。

そして技拓が今、再注目していただきたい地域の一つに「片瀬山」と「西鎌倉」
があるんですね。
鎌倉駅周辺のいわゆる「旧鎌」や七里ヶ浜は絶大な人気を誇り、
もちろんお勧めの土地でもあるのですが、再注目という意味では、是非とも
気にかけていただきたい地域です。
技拓はあえて、「新湘南生活」としておすすめしたいと思っています。

では、それはなぜかという理由をその土地の歴史も踏まえながら、
連載でお伝えします。

まず今日は、湘南の別荘文化についてお話しします。

もともと湘南という土地は、漁村と農村で形成された土地に
明治20年代の鉄道(東海道線・横須賀線)の開通により、
風光明媚な景観や温暖な気候に海水浴場や
サナトリウムの開設等を背景に別荘地として発展していきました。

主に、皇室や宮家をはじめ、政財界人、文化人などが別荘をもったことから
始まります。
湘南発祥の地は大磯と言われ、大磯、藤沢市鵠沼、鎌倉、逗子、葉山
が主に別荘地域として形成されていきました。
大磯は、すでに宿場町として街道沿いに栄えていた場所であり、
明治18年に日本初の海水浴場の設置が始まった地でもあります。
逗子は、明治20年代初頭に、逗子海岸が海水浴の適地と言われ
横須賀線も開設されたことで、別荘地として発展をしていきます。
鵠沼では、明治19年に海水浴場の開設、明治20年に東海道線
藤沢停車所の設置、明治35年の藤沢・江の島間の江ノ電の開通などを
契機に別荘地として発展していきます。

私は鵠沼育ちなので、子どもの頃を思い出すと、
まだ今よりは大きなお屋敷が周りに多かった方だと思います。
明治時代には、1区画1000坪以上のものが多く、中には14600坪を所有していた方も
いたりして、大規模な別荘建築やその庭園が点在した景観は、
さぞや優雅な街並みだったことでしょう。
今やそのような残影はほとんど見ることがなく、
鵠沼にかつてのお屋敷通りの名残がほんのわずか。
大磯がまだかろうじて、別荘文化の名残があるかというところでしょうか。
逗子市新宿あたりは、門構えくらいしか見ることができません。

自分の育った鵠沼を中心にしたお話になってしまいますが、
もともと御用邸の候補地として挙げられていたのが、鵠沼。
鵠沼は明治22年頃、御用邸に誘致しようとし、鵠沼海岸に20万余坪所有していた
大給子爵(大分県大分市の府内城元城主)らは、
名士や財閥にも鵠沼の土地を買うように勧め、
鵠沼別荘地全体の水準を上げる試みをしたのですが、
土方伯爵の推奨により明治27年に葉山に決まったんだそうです。

明治35年に江ノ電が開通すると、一気に別荘所有者は広がりを見せ、
元地主によって段階的に分譲されていたったと聞いています。
大正になると、別荘から住宅地へと宅地化が進み、海軍将官や横浜の富裕層
東京大学教授、企業の役員クラスなどが多く移り住んできます。
その頃の住宅地の規模は、500坪から1000坪が平均的。
私の祖父が購入したのは、昭和6年ころですが、
まだまだ相州藤沢市藤ヶ谷という住所だったそうです。
相州なんてついていたんですね。

敗戦直後は、アメリカ軍に接収されたお屋敷に、
将校クラスのアメリカ兵家族が移り住み、
時折行われるガーデンパーティーや、将校家族主催のバザーなどで
暮らしを目の当たりにした子どもたちは、
生活文化の違いに衝撃を受け、
アメリカ文化への憧れに、早くも触れてきた地域だったのです。
のちに接収が解除となり、父ら世代が高校時代になると
バンドを結成したり、サーフィンをやったり、いわゆる太陽族が
生まれてくるのです。

余談ですが、辻堂の浜見山周辺も昭和34年まで接収され、
一部アメリカ軍の演習地として使用されていました。
その規模なんと105万平方メートル。
今のおでんセンターの辺りに、写真にあるような
「DENGER DEAD END」の看板が立っていたそうですよ。
14463224_1097812600294770_6957733443284218187_n

それは、きっと逗子でも鎌倉でも同じような状況だったのでしょう。
もともと大規模な別荘を所有していた、旧華族皇族、政財界人などなどの
別荘文化から徐々に住宅地として分割された宅地は、東京市内の富裕層らに供給され
高水準の住環境を確保した郊外型住宅地として発展していきました。

たとえば、湘南白百合学園や湘南学園は、まさにそれら移り住んだ購入者の
ご子息・ご子女のための学校として設立されました。
それについては、片瀬村の名主も絡めて片瀬の歴史で触れてみたいと思いますが、
湘南と呼ばれた地は、こうした背景の中ではぐくまれた一部の文化があり、
その名残は昭和60年代まで街並みに残されたものの、徐々に細分化されて
今に至るのです。

湘南の別荘文化から徐々に郊外型住宅地へと、移り変わっていく
簡単な経緯ですが、今ではご存じない方も多くなっています。
その土地の歴史ゆえの雰囲気というものが、どの地域にもあるものです。
歴史を紐解くのは、本当に面白いですね。

では、次回は片瀬について触れてみたいと思います。

a