湘南の歴史に触れる 片瀬編
日々の業務に勤しんでいたら、もう師走も半ば!
今年もあと半月で終わってしまうなんて、信じられませんね。
さて、湘南の歴史のことを書いてから、あっという間に1ヶ月が経ってしまいました。
先月は、湘南の別荘文化に触れてみました。
技拓として、再注目をしていただきたい「片瀬山」「西鎌倉」を
ご案内するに当たり、その周辺地域の歴史を紐解いていますが、
年内中に、片瀬には触れておきたいと思い、調べてみました。
片瀬と言えば、みなさんが思い浮かぶのは小田急の片瀬江ノ島駅でしょうか?
片瀬海岸、江ノ島、江ノ島水族館。最近ではパンケーキで有名なお店などもあり、
ここ数年人気が高まっている観光名所ですね。
我々技拓のスタッフも、毎年初詣は江島神社。
新年会は、丸だい仙水さんとお決まりコース
で、ながーーーいお付き合い。
江ノ島は、江戸時代から観光名所として人気があった場所でした。
私自身も、片瀬は馴染みの深い場所です。
私が片瀬と言われてぱっと思いつくのは、白百合と片瀬教会と山本公園。
江ノ電の江ノ島駅を降りて、海に向かうすばな通りはたくさんの方々が
ご存知と思います。
そのメイン通りから右に少しそれた道を通って川沿いに向かうと、
地元では一番美味しいと言われている濱野水産の釜揚げシラスの
香りがぷ~んと漂う場所が、私の通学路でした。
濱野水産を通り過ぎると、左手に山本橋が出てきて渡ったところに
片瀬教会が出てくる。教会よりもう少し右側にいくと山本公園。
テニスコートもあって、どこか優雅な雰囲気のある地域で、
この場所に8年間通い続けました。
そして技拓でも、第38回神奈川建築コンクールで奨励賞受賞した
公園に隣接する「リバーサイドテラス山本」を建てさせて
頂きました。
なぜ、山本公園や山本橋なのだろう?と思われた方もあると思いますが、
このあたり一帯は、もともと江戸時代からの名主であり、明治時代に
鎌倉郡の郡長として、片瀬村の発展に貢献された山本家の敷地だったからです。
そして片瀬教会と湘南白百合を語るには、山本家に触れずには語れないのです。
幕末から明治にかけて山本家の当主であった山本庄太郎氏には、
三人の息子さんがいました。
片瀬地区の宅地造成や江ノ電の敷設に貢献された、百太郎さん。
暁星学園に通いフランス語、英語をマスターした後軍人を経て原首相の元
国際的に活躍し、カトリックに深い信仰心を持ち、片瀬カトリック教会の
設立に尽力されてた、信次郎さん。
大正時代に、自宅にカトリックの仮聖堂を設け、それが後のカトリック片瀬教会へと発展していくのです。
そして桂太郎首相の秘書として尽力された、三郎さん。
当時、片瀬など海岸地帯の多くは、「死の病」と言われた結核の療養に
使われていましたが、百太郎さんは健康な都市生活者の別荘地として、
利用してもらおうと考えた先駆者でした。
そのためには、生活基盤のしっかりした宅地開発が必要と考え、
江ノ電の敷設、山本橋を架橋、砂丘上の防砂林の植樹や
別荘開発のインフラ整備をされたそうです。
片瀬乃木幼稚園、小学校、高等女学校(今の湘南白百合学園)の開設にも
山本家は深く携わり、逗子から二宮までの別荘定住者子弟の受け皿と
なっていったのです。財界政界学界、文化人などの著名人子弟たちに加え、
外交官の子弟が多かった湘南の別荘地定住者は、国際的な感覚をもつ
湘南文化の発生に、大きな影響を与えていきました。
戦後には、大臣、次官、大使クラスの外交官一族が多く定住し、
旧財閥、旧華族の名前もごく普通にあったというのが、
この湘南という地なんだそうです。
こんなことを調べていたら、なぜこの湘南文化が生まれたのか
容易に想像がつきました。
まさに、別荘地であったからこそなんですね。
調べてみて、本当に楽しかったし、自分の中の疑問も明らかに。
やっぱり自分の住んでいる地域の歴史を知る、文化を知るって
とても楽しいものです。
年が明けたら、さっそく「新湘南生活」として改めてご提案したい
片瀬山について、触れていきたいと思います。