湘南の別荘文化を紐解く
いろいろな方々とお話をしているうちに、湘南の移り変わりについて
もっと掘り下げて知りたいという気持ちが湧いて、
ここしばらく調べていました。
湘南の歴史の話をすると、とても喜んで聞いてくださる方も多く、
これはちょっと、こちらのページで書いてみても面白いのではと、
思っています。
そもそも、なぜ歴史を調べたかというと、
湘南への移住にあたって、こんなことを加味してほしいなぁとか、
こんな場所が湘南らしいとか、土地の持つ雰囲気や暮らしに必要なインフラのことなど
総合的にご説明するにあたり、まずその土地の歴史を知ることで
より身近に感じられるのではないかと思ったからです。
そして技拓が今、再注目していただきたい地域の一つに「片瀬山」と「西鎌倉」
があるんですね。
鎌倉駅周辺のいわゆる「旧鎌」や七里ヶ浜は絶大な人気を誇り、
もちろんお勧めの土地でもあるのですが、再注目という意味では、是非とも
気にかけていただきたい地域です。
技拓はあえて、「新湘南生活」としておすすめしたいと思っています。
では、それはなぜかという理由をその土地の歴史も踏まえながら、
連載でお伝えします。
まず今日は、湘南の別荘文化についてお話しします。
もともと湘南という土地は、漁村と農村で形成された土地に
明治20年代の鉄道(東海道線・横須賀線)の開通により、
風光明媚な景観や温暖な気候に海水浴場や
サナトリウムの開設等を背景に別荘地として発展していきました。
主に、皇室や宮家をはじめ、政財界人、文化人などが別荘をもったことから
始まります。
湘南発祥の地は大磯と言われ、大磯、藤沢市鵠沼、鎌倉、逗子、葉山
が主に別荘地域として形成されていきました。
大磯は、すでに宿場町として街道沿いに栄えていた場所であり、
明治18年に日本初の海水浴場の設置が始まった地でもあります。
逗子は、明治20年代初頭に、逗子海岸が海水浴の適地と言われ
横須賀線も開設されたことで、別荘地として発展をしていきます。
鵠沼では、明治19年に海水浴場の開設、明治20年に東海道線
藤沢停車所の設置、明治35年の藤沢・江の島間の江ノ電の開通などを
契機に別荘地として発展していきます。
私は鵠沼育ちなので、子どもの頃を思い出すと、
まだ今よりは大きなお屋敷が周りに多かった方だと思います。
明治時代には、1区画1000坪以上のものが多く、中には14600坪を所有していた方も
いたりして、大規模な別荘建築やその庭園が点在した景観は、
さぞや優雅な街並みだったことでしょう。
今やそのような残影はほとんど見ることがなく、
鵠沼にかつてのお屋敷通りの名残がほんのわずか。
大磯がまだかろうじて、別荘文化の名残があるかというところでしょうか。
逗子市新宿あたりは、門構えくらいしか見ることができません。
自分の育った鵠沼を中心にしたお話になってしまいますが、
もともと御用邸の候補地として挙げられていたのが、鵠沼。
鵠沼は明治22年頃、御用邸に誘致しようとし、鵠沼海岸に20万余坪所有していた
大給子爵(大分県大分市の府内城元城主)らは、
名士や財閥にも鵠沼の土地を買うように勧め、
鵠沼別荘地全体の水準を上げる試みをしたのですが、
土方伯爵の推奨により明治27年に葉山に決まったんだそうです。
明治35年に江ノ電が開通すると、一気に別荘所有者は広がりを見せ、
元地主によって段階的に分譲されていたったと聞いています。
大正になると、別荘から住宅地へと宅地化が進み、海軍将官や横浜の富裕層
東京大学教授、企業の役員クラスなどが多く移り住んできます。
その頃の住宅地の規模は、500坪から1000坪が平均的。
私の祖父が購入したのは、昭和6年ころですが、
まだまだ相州藤沢市藤ヶ谷という住所だったそうです。
相州なんてついていたんですね。
敗戦直後は、アメリカ軍に接収されたお屋敷に、
将校クラスのアメリカ兵家族が移り住み、
時折行われるガーデンパーティーや、将校家族主催のバザーなどで
暮らしを目の当たりにした子どもたちは、
生活文化の違いに衝撃を受け、
アメリカ文化への憧れに、早くも触れてきた地域だったのです。
のちに接収が解除となり、父ら世代が高校時代になると
バンドを結成したり、サーフィンをやったり、いわゆる太陽族が
生まれてくるのです。
余談ですが、辻堂の浜見山周辺も昭和34年まで接収され、
一部アメリカ軍の演習地として使用されていました。
その規模なんと105万平方メートル。
今のおでんセンターの辺りに、写真にあるような
「DENGER DEAD END」の看板が立っていたそうですよ。
それは、きっと逗子でも鎌倉でも同じような状況だったのでしょう。
もともと大規模な別荘を所有していた、旧華族皇族、政財界人などなどの
別荘文化から徐々に住宅地として分割された宅地は、東京市内の富裕層らに供給され
高水準の住環境を確保した郊外型住宅地として発展していきました。
たとえば、湘南白百合学園や湘南学園は、まさにそれら移り住んだ購入者の
ご子息・ご子女のための学校として設立されました。
それについては、片瀬村の名主も絡めて片瀬の歴史で触れてみたいと思いますが、
湘南と呼ばれた地は、こうした背景の中ではぐくまれた一部の文化があり、
その名残は昭和60年代まで街並みに残されたものの、徐々に細分化されて
今に至るのです。
湘南の別荘文化から徐々に郊外型住宅地へと、移り変わっていく
簡単な経緯ですが、今ではご存じない方も多くなっています。
その土地の歴史ゆえの雰囲気というものが、どの地域にもあるものです。
歴史を紐解くのは、本当に面白いですね。
では、次回は片瀬について触れてみたいと思います。
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